出水城

 昨日、出水出身、歴史小説家・歴史研究家の桐野作人先生の講演会に行ってきました。先生はそこで出水市にある「出水城」の観光地化を強く薦めていました。検索しましたらこのブログが出水城についての歴史が詳しく書いてあり、しかも読みやすかったのでリンクさせて頂きました。 抜粋すると、

 「まずは建久年間(1190~99年の間)、和泉兼保により築かれたとされます。 和泉兼保は伴姓和泉氏で、和泉荘の弁済使下司職でした。」

 ブログでは伴姓和泉氏は島津系和泉氏に滅ぼされたかもと書いてあります。この和泉荘というのが「出水市」の名前の由来なのでは。

 「南北朝時代に島津系和泉氏が領主となりました。」(その後島津家内の争いに巻き込まれ)「1417年、島津系和泉氏が滅びました。」そして「1453年、島津用久(薩州家)が出水城を居城とするようになりました。」

 「1593年、(薩州島津家7代当主)島津忠辰が改易・病死したため、城主不在となりました。」

 そのいきさつですが、「1593年の朝鮮出兵(文禄の役)で、豊臣秀吉は島津義弘に従うよう島津忠辰に命じました。 しかし、島津忠辰は別行動を望み(いろいろと理由があるようです)ましたが、豊臣秀吉はこの申し出を却下しました。 すると、島津忠辰は病と称して朝鮮に上陸しなかったため、豊臣秀吉が激怒。 島津忠辰は改易を言い渡され、小西行長に預けられました。 その後間もなく島津忠辰は病死し、島津薩州家は断絶しました。 出水の地は、豊臣秀吉の蔵入地(直轄地)となりました。」

 もしも豊臣秀吉に従っていれば薩州島津家も続いて、やがては宗家となったかもしれません。

 「1599年、出水が島津家に返還されました。 朝鮮出兵の功として、島津義久に出水が返還されました。」

 城ひとつにも長い歴史がありますね。出水城は曲輪や切通など遺構も見ることが出来るそうです。ガイドがいないと立入禁止区域が多いので事前に出水市などに連絡してからが良いと思います。 リンク元は、戦争のいきさつなどおもしろく、詳しく書いていますので是非読んでみてください。


池田和人のブログ

池田乳業の代表者のブログです。 仕事をする上で、生きる上で、感じたことや気づいたことを書いていこうと思います。

0コメント

  • 1000 / 1000